自己犠牲の落とし穴
投稿日:2009年1月25日
「自分さえ我慢したらうまくいく。」
「周りの人が先で、自分は最後でいい。」
丸く治める秘訣のようです。
私も自己犠牲の精神を持っていて、その良さはよく分かっています。
しかし、すべてのことには、良い面、悪い面があり、
今日は、そのデメリットについて、述べたいと思います。
ひとつの例を挙げてみます。
あなた(女性)には夫と子供がいます。
今日は、自分の友人家族2組と食事に来ました。
自分の家族3人+友人Aの家族3人+友人Bの家族3人での食事会です。
食事もすんで、お開きとなり、車で来ていた友人Bが駅まで乗せていってくれることになりました。
ただ、駅まで乗せてもらえるのは、ひと家族だけです。
あなたの家族か、友人Aの家族かどちらかは、乗せてもらえますが、
もう一方は駅まで歩かなければなりません。
あなたは言います。
「私たちは歩くので、Aさんたちを乗せてあげて。」
「大丈夫。私たちのことは気にしないでいいよ。」
さあ、帰りの道はケンカか沈黙です。
「何で、俺らだけが歩かなあかんねん。」 (夫)
「仕方ないやん。ひと家族しか乗られへんのやし」 (あなた)
あなたの夫は、自分が我慢を強いられて不満です。
あなたは、自己犠牲でいいことをしたと思っているのに、不満を言われて悲しい気持ちです。
夫の器が小さいんじゃないか、とか違うことまで考え出します。
なぜ、こんなことになってしまうのか。
あなたは、自己犠牲(自分だけの犠牲)と考え、自分勝手に判断しましたが、
実際は、自己の家族の犠牲だったということ。
つまり、今回犠牲になったのは、自分だけでなく、自分の家族だということです。
家族の犠牲を、自分が勝手に提案したことに誤りの本質があります。
通常、人間はチームで動いているので、
自己犠牲の精神は、家族や会社などのチーム全体に及ぶことになるのです。
「そのくらい我慢したらいいやん。」
あなたの反論が聞こえてきそうですが、
その反論は当たりません。
我慢は自らすべきことであって、他から強制されるものではありません。
それが、配偶者であっても、もちろん同様です。
自ら我慢した自分にはストレスが少ないですが、
我慢を強制された家族のストレスは案外大きいものです。
では、どうすべきだったのか?
「私たちは歩くので、Aさんたちを乗せてあげて。」
この言葉を言う前に、一緒に犠牲になる家族の了解を取る必要があります。
みんなの目の前で「いいよね?」なんて言っても「いいよ」としか答えられないので、こっそりとです。
事前に了解が取れない場合は、言ってはいけない言葉です。
自己犠牲の落とし穴は、自己犠牲と自分のチームの犠牲を混同してしまうこと。
自分のチームに迷惑をかけることなく、自己犠牲の精神を発揮したいものです。