鈴木 徹司

自己犠牲の落とし穴

日本では、自己犠牲は美徳とされてきました。

「自分さえ我慢したらうまくいく。」

「周りの人が先で、自分は最後でいい。」

丸く治める秘訣のようです。

私も自己犠牲の精神を持っていて、その良さはよく分かっています。

しかし、すべてのことには、良い面、悪い面があり、

今日は、そのデメリットについて、述べたいと思います。

ひとつの例を挙げてみます。

あなた(女性)には夫と子供がいます。

今日は、自分の友人家族2組と食事に来ました。

自分の家族3人+友人Aの家族3人+友人Bの家族3人での食事会です。

食事もすんで、お開きとなり、車で来ていた友人Bが駅まで乗せていってくれることになりました。

ただ、駅まで乗せてもらえるのは、ひと家族だけです。

あなたの家族か、友人Aの家族かどちらかは、乗せてもらえますが、

もう一方は駅まで歩かなければなりません。

あなたは言います。

「私たちは歩くので、Aさんたちを乗せてあげて。」

「大丈夫。私たちのことは気にしないでいいよ。」

さあ、帰りの道はケンカか沈黙です。

「何で、俺らだけが歩かなあかんねん。」 (夫) 

「仕方ないやん。ひと家族しか乗られへんのやし」 (あなた)

あなたの夫は、自分が我慢を強いられて不満です。

あなたは、自己犠牲でいいことをしたと思っているのに、不満を言われて悲しい気持ちです。

夫の器が小さいんじゃないか、とか違うことまで考え出します。

なぜ、こんなことになってしまうのか。

あなたは、自己犠牲(自分だけの犠牲)と考え、自分勝手に判断しましたが、

実際は、自己の家族の犠牲だったということ。

つまり、今回犠牲になったのは、自分だけでなく、自分の家族だということです。

家族の犠牲を、自分が勝手に提案したことに誤りの本質があります。

通常、人間はチームで動いているので、

自己犠牲の精神は、家族や会社などのチーム全体に及ぶことになるのです。

「そのくらい我慢したらいいやん。」

あなたの反論が聞こえてきそうですが、

その反論は当たりません。

我慢は自らすべきことであって、他から強制されるものではありません。

それが、配偶者であっても、もちろん同様です。

自ら我慢した自分にはストレスが少ないですが、

我慢を強制された家族のストレスは案外大きいものです。

では、どうすべきだったのか?

「私たちは歩くので、Aさんたちを乗せてあげて。」

この言葉を言う前に、一緒に犠牲になる家族の了解を取る必要があります。

みんなの目の前で「いいよね?」なんて言っても「いいよ」としか答えられないので、こっそりとです。

事前に了解が取れない場合は、言ってはいけない言葉です。

自己犠牲の落とし穴は、自己犠牲と自分のチームの犠牲を混同してしまうこと。

自分のチームに迷惑をかけることなく、自己犠牲の精神を発揮したいものです。