鈴木 徹司

過大評価からの着地



私が大手保険会社の新入社員の時の話になる。

社会人になった初日。

同期みんなは、希望に燃えていて、私は、すばらしい仲間に恵まれたと感じていた。

一人ひとりはキラキラしていたし、その中に、自分がいることが誇りだった。

 
翌日からは、九十九里浜での合宿研修だった。

合宿1日目、夜中まで厳しい叱責を受け続けた。

言われたことができない、ルールが守れない、積極性がないといった、

社会人への第一関門だ。

指導係の上司は容赦がない。甘えは一切許されない。研修室には怒号が響いた。

落ち込む人やネガティブになる人も出て、同期の仲間は騒然となった。

 
2日目の夕方の休憩時間。

同期の友人一人が荷物をまとめ始めた。

やってられないから帰ると言う。もちろん退職のつもりだ。

私は慌てて、説得に当たった。

「こんな早くに決めることはない」

「もう少し一緒に頑張ろう」

せっかく入社したのに、もったいなかった。

そう、彼は2日前まで、確かに希望に満ち溢れていた。

 
説得の甲斐なく、彼は宿舎を出て、駅に向かって歩き出す。

私は、迷わず、上司の控室に駆け込んだ。

大変なことになったと一生懸命に伝えた。

 
そして、上司の反応にびっくりすることになる。

「そうか、分かった」

それだけ?引止めに行かなくていいのか?

疑問が頭をグルグルと駆け巡った。

彼は、駅までの道のりをゆっくり歩いているに違いない。

引き止めてくれる人を待って、難しい顔をしながら、普段よりゆっくりとした足取りで駅に向かっているはずだ。

今、上司が行けば、多分引き止められる。

彼は、不服そうにしながらも、きっと戻ってくる。

それでも、上司に行く素振りはない。

そもそも引き止めるという発想さえなかった。

 
 
あれ、何かが違う、とこの時感じた。

 
自分達が思う自らの価値と、会社が考えている価値に大きなギャップがあった。

 
せっかく入社してきた新入社員なんで、

会社は何としても辞めさせずに育成したいと考えていると私は思っていたが、

実際は、それは大きな間違いだった。

 
 
私は、大学時代、誰かに叱責されたことはない。

ほとんどの人もそうだと思う。

大学生というだけで、世間から認められ、何となく賞賛され、

ぼんやりした期待感をもって見られてきた。

 
自分はもっと価値のある人間だと思っていた。

社会からもある程度必要とされるし、会社からも丁寧に扱われると思っていた。

残念ながら、大きな勘違いだった。

 
社会は、特に私を必要とするわけではないし、

会社にとって、私は特別な人ではなく、単なる新入社員の一人だった。

 
そんな当たり前のことに、その時に気付いた。

自分も周りの人もみんなで、集団で勘違いしていた。

集団で勘違いしたおかげで、気付くのが遅れた。

理屈では分かっていたつもりだったのに、実感がずれていた。

 
そう、簡単に言うと、私は自分のことを過大評価していた。

周りにおだてられ、不必要に褒められて、そこそこの人間と思っていたが、

実際は、まだまだこれからスタートの人間だった。

 
学生時代に起こる過大評価からどう着地させるか、というのは意外と難問だ。

雑に行うと、着地させるべく行う正当な評価を本人は過小評価と受け止めてしまいがちだ。

一気に行うと、受け止められない人が出てくる。

 
おそらく、ほとんどの人にとって、

正当な評価は、自己評価よりかなり低いところにある。

自己評価は、プライドとなって、高くなりすぎてしまっている。

 
「自分はどこか特別である」という自己過大評価は、

人間社会には必要悪なのかもしれない。

それによって、支えられている人もいる。

 
でも、その過大評価からの着地がうまくできずに、

生きにくくなっている人も多いように思う。