学びはいくつになっても
投稿日:2024年3月17日
最近、23歳になる息子が本を読んでいて、とても新鮮です。
というのも、彼は学生時代は大の勉強嫌いで、
夏休みの宿題はもちろんやらないし、
「もう勉強したくないから」という理由で大学に行かず就職した位だったからです。
むしろ、社会人になってからの今の方が、
自主的に勉強したり、難しい資格試験を受けたり、自己研鑽に励んでいます。
ちょうど最近読んだ本の中に、
画一的な学校教育に疑問をもった作者が、
教育の歴史を紐解きに、過去への冒険に出るというものがありました。
著者が冒険に出るきっかけとなったのは、
「なぜ学校に行かないといけないの?」という子供の問いに答えられなかったから。
過去への冒険に行き、過去の哲学者たちの教育思想を学ぶことで、現在の教育体制のルーツを探る。
結果分かったことは、
・学びとは本来、「学びたいから学ぶ」はずなのに、
学校は、それを「教わる」という受け身のものに変えてしまった
・子供たちは、教師の監督と指導のもと、学ぶ自由が奪われてしまっている
といったものでした。
著者はこうも言っています。
もっと学びは自由でいいし、楽しくあるべきだ。
教育(教え、育む)ではなく、学育(学び合い、育み合う)という言葉に言いかえたい。
現代社会において、学びの意義は、
経済的な成功ばかりではなく、「人間にしかできない仕事」を探求し、地球全体を良くしていくこと。
そのためには、生涯にわたって「ラーニング」と
「アンラーニング」(これまでに学んだものを捨て去り再学習すること)
を繰り返しながら探求を続けるべき。
まさにその探求の場・コミュニティが新しい学校の在り方だと。
私自身もそんな言葉に非常に共感するのですが、
息子を見ていると、まさにこの言葉を体現して生きているように思います。
彼にとって、学生時代は「学びたい時」ではなかったし、
きっと、学校が教えることは「学びたいこと」ではなかったのですね。
私も、そんな息子を見習って、
常に自分の学びの意義を探求することをやめず、
この先いくつになっても「ラーニング」と「アンラーニング」を続けていこうと思います。